2006年08月28日

余呉湖

 余呉湖で撮影したロールフィルムを現像してみたら、ぶれていた(^^;....

 確か、シャッタースピードは1/4だったような気がする。この時は、ケーブルレリーズをセットするのが面倒くさくって、指でシャッターレバーを押してしまった。そもそも、これが間違いだったようだ。こういうくだらない失敗というのは、初期の段階で経験しておいた方がいいだろう。って、1年近く大判やってて、まだ初期とは。。

 次回から、教訓を生かし同じ失敗をしなければいいのである。やっぱり、面倒くさがってはいけないなあ。それにしても、風景写真だったら、やっぱりアクロスの方が断然有利になる場合がある。相反則不軌の影響をアクロスは事実上、ほとんど無視出来るフィルムのような気がする。だって、いくら何でも120秒以上の長時間露光なんて、僕の場合はする機会がないから。

 でも、アクロス一辺倒ってわけにもいかないんだよねえ。風が吹いてる時とか、じっとしてない子供のポートレイトを撮る時は、少しでもスピードをかせぎたい時があるのだ。

 今日は、3種類の現像液を調合した。大量に溶解すると、さすがに手間がかかった。明日の夜は、シートフィルムと、デルタ3200を現像しよっと。

2006年08月27日

余大判で余呉湖

 友人と、車に自転車を積んで、余呉湖へ行ってきた。一周6キロくらいなので、自転車でもすぐに周れてしまう。到着したのが、2時くらいでちょうど暑い時間帯だったので、杉箸という集落に行き、タチハラを付けた三脚をかついで、農作業に使うリアカーとそれを引っ張るオートバイ等を撮影したりした。

 4時ごろになったので再び余呉湖へ向かい、自転車を降ろしていよいよ本番開始。写真を撮りながら周ったので、結局一周するのに2時間もかかってしまった。シートフィルム8枚と6×7を10枚撮影した。今回使用したのは、トライX320(EI160)のシートフィルムと、プレスト400(EI200)である。わずかな感度差があるが、二種類のフィルムを使うと間違えて撮ってしまうのでややこしい。まあ、致命的に写ってないということはないような差ではあるが。。

 それにしても、やっと最近になって、何とか大判が使えるようになってきたような気がする。でも、心の中では、まだまだ作品を撮る段階ではなく練習段階だなって思っている。

2006年08月21日

吉田ヤスヤ 写真展

 今日はこれから大阪へ吉田ヤスヤ写真展を見に行って来ます。今日は家族と一緒です。岐阜は雨だけど、関西方面は天気予報では大丈夫みたいです。

2006年08月18日

雑記

フィルムカメラでの撮影は、デジカメでの撮影と違い、その場で確認出来ないため、現像後に見てみると意外なものが写っているのおもしろい。
 
ってなことを、あちこちで読んだりするけど、僕の場合には、これは当てはまらないなあ。そもそも、僕にとっては、シャッターを切る前に、何が写るのかは確認しているので、予想外のものが写りこんでしまうというのは、それが何であれ、失敗だからである。

 ん!? でも待てよ。もしかしたら、それは僕がRFを主力として使っているからであって、開放測光のSLRであれば、絞り込んで撮影したときは、ファインダーではボケて見えなかったものが写ったりするのかもしれないなあ。でも、それにしたって、想定外のものが写りこむのは僕にとっては不愉快である。

 もしかしたら、この偶然撮れる写真を容認するかどうかっていうのは、その人の写真に対する考え方の根幹を成すものなのかもしれないなあ。


 バリの写真を8月中に完成させると言っておきながら、そろそろ8月の中旬を終えようとしているのに、あまりはかどっていない。気になる写真をキャビネでささっとプリントした状態で、今のところは、作業が中断している。efkeのシートフィルムと格闘していたのも原因の一つであるが、最終的な写真のセレクトというのは、少し時間を置いた方がいい。その方が、冷静に、写真作品という視点で見る事が出来るような気がする。旅の興奮が冷めないうちに、作品を作ると、写真とは無関係な個人的な思い入れが影響してしまうような気がするのだ。

 でも、何となく、そろそろ無性にバリの写真をプリントしたくなってきた。どうしてもプリントしてみたいと思うものから、8×10のバライタでプリントしてみよう

2006年08月14日

雑記

ある写真サイトを閲覧した。掲載写真の全てが、技術的には、何の問題もない(全て合格点)ものであった。「技術的には」というのは、いわゆる学習で得られるものを指している。露出・ピント・構図等である。

 しかし、それらの写真を見ていて、作品を見ている気分ではなく、教科書を見ている気分になってしまったのだ。そつなく撮れれば、それでいいってもんじゃないでしょうという気がした。

 技術的に確かな写真を撮ることは、それだけでも大変なことであることは承知している。あまたの写真サイトの中でも、それが出来ているのは決して多くはない。

 昨日、図書館でアラーキーの本を借りたが、その中に、「完璧であってはいけない。どこか抜けてないとだめだ。」といった事が書いてあった。しかし、それは、あくまでも完璧な事が出来る人が言うセリフなんだろうなあって思う。抜けた部分というのは、結果的に抜けてしまったのではなく、そのことを確信の上で抜けていなければならないと僕は思っている。

 これは、人格にも通じるところがあると思う。ただ単に抜けているのは、どうしようもない人だが、付け入る隙がない人っていうのも、お近づきになりたくはない。

 じゃあ、僕の写真はどうかっていうと、技術的に可能な箇所については完璧であろうと努力はしている。いつか、どこかで抜けた部分を作らなきゃならなくなった時、いったいどのようにすればいいのだろうと思う。それ以前に、そんな境地に立つ事が出来るかどうかは怪しいものだけど。

2006年08月07日

アンセル・アダムスとブラッサイ

 図書館で、ブラッサイとアンセルアダムスの写真集を借りました。まずは、ブラッサイですが、構図の取り方は、僕の好みです。他の多くの著名な写真家の写真集も見ましたが、スナップ系の写真集の中では、かなりいい感じだと思います。ブラッサイと言えば、やはりパリの夜の写真ですが、今から70年近く前に、どんなフィルムを使って夜の街を撮影したのだろうと思ってしまいます。この時代に、デルタ3200のようなフィルムが存在したとも思えないですしね。トライXを増感して撮影していたのでしょうか?謎です。

 夜の街の写真ってあまり見たことがなかったんですが、ブラッサイの写真は電灯のような発光体は、白く跳んでしまっています。僕は、どうも印画紙の白が出るのは好きにはなれなかったのですが、周囲より明らかに明るい箇所については、白く跳んでいた方が、自然に見えるのかなって思いました。何でもかんでも階調を無理やり載せていくのは、不自然ですね。でも、白く跳んでいたり黒く潰れていたりする部分があったとしても、それが、写真の多くの面積を占めるような写真は、やっぱり好きではありません。

 アンセルアダムスの写真集の中で、興味深い写真を発見しました。同じネガからプリントしたと推察される2枚の作品が載っていました。一枚は、撮影した翌年にプリントされたもので、もう一枚は撮影してから30年後にプリントされたものです。焼き込みや、覆い焼きの仕方が、まるで違いますね。30年も経過すると、感覚が違ってくるのでしょうか?僕の好みとしては、撮影年から30年後にプリントされたものの方が好きです。