2006年09月21日

 探している小説があったので、古本屋を3軒ほど、はしごした。本棚の背表紙を見ていると、作家によって、多作な人、寡作な人、それぞれである。多作な作家の文章というのは、特にそれが随筆であった場合には、別の本を読んでいるにもかかわらず、同じエピソードが語られることもあって、正直言って、食傷気味になることがある。しかし、寡作な作家の文章というのは、それがない。寡作な作家の方が、多作な作家よりも、作品の質が優れていると言うつもりはないが、飽きが来ない分、寡作な作家の文章の方が良いのかもしれない。でも、そういう作家が気に入ってしまうと、もっとたくさん書いてくれよと、勝手な事を思ってしまうわけだが。。

 写真も多分、僕にとってはそうだ。同じような写真を何枚も並べられると、もう見たくなくなる。そのような写真は、WEB上で見ていても、閲覧時間が1秒以下で、すぐに次の写真へ進むボタンをクリックしてしまっている。しかも、そういうサイトには、うんざりするほど、写真が掲載されていたりするので、クリックの連打になってしまう。

 そういった理由で、僕が寡作なタイプであれば理想なんだけど、実は、そうではないから問題だ(笑)。良い写真が、そんなに撮れないのが大きな理由である。自分の時間がないから、作品が作れないなんていう言い訳はするつもりはない。

 僕は、写真は場当たり的な瞬間芸ではないような気がする。それがスナップであったとしても、計算(構図や露出等)して、作り上げていくものである。美術館に架かっているような芸術作品(彫刻・絵画)は、計算づくめで作り上げられたものだと僕は、思っている。たまたま、作れてしまった(撮れてしまった)というものは、存在しないはずである。予期せず被写体がぶれてしまったり、ピントがあまかったりする写真が、おもしろがられる風潮があるが、僕は、そういうのはダメ写真だと思っている。計算外で撮れてしまった写真というのは、「表現」というものとは、違うものである。「表現」というからには、意図的でなければならない。

 そんな事を考えながら、古本屋を周ったけど、結局、お目当ての小説を探すことが出来なかったので、アマゾンで古本を発注した。

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